第十章 近世の学問と学習の文化
第一節 近世の学問
(一)近世儒学の始まり
近世以前の儒学 儒学の日本への伝来は、5世紀の古代にさかのぼることができる。朝鮮半島を通じて、儒学は漢字文化とその当時の先進的な知識を持つ知識人とともに伝わってきた。7世紀以降、日本は中国の律令制度にならって政治を展開した。そして、令の学制に基づいて、「大学寮」(官吏養成のための最高教育機関)において制度的に儒学教育を進めていった。以来、儒学は中原氏や清原氏などの博士家の貴族によって、家学として独占されていた。中世には、中国に渡航した禅僧によって大量の書籍がもたらされ、宋学(北宋に興り南宋の朱熹によって大成された学問。新儒学、道学、理学などとも。)が導入された。禅僧は禅儒一致の立場から、儒学を禅学のいわば附属的な学問として説いた。
近世初期の儒学 近世に至って、博士家や禅僧に代わって、ようやく自覚的な儒家が登場した。近世儒学の開祖と評される藤原惺窩(1561-1619)である。惺窩の門下に林羅山(1583-1657)や松永尺五(1592-1657)など多数の学者が輩出した。林羅山は道春と称して、僧侶の資格で家康以下4代の将軍に仕え、歴史書の編纂や幕府の法度などの公文書の起草に関わった。その博覧強記の才能を買われた羅山は、他方で『春鑑抄』などの朱子学の啓蒙書を著したり、朱子『四書集注』など多くの漢籍に訓点を施したとして、朱子学の普及に努めた。
羅山はそのほかにも、様々な分野の知識に関心を示し、多くの著述を残した。なお、羅山が門人を育てるために私邸に開いた塾は、後に幕府の学問所、昌平坂学問所となった。
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学習ポイント
- 近世儒学および国学と蘭学
- 近世の文字文化
- 近世の学習文化
(二)近世儒学の展開
明代注釈書による朱子学理解 近世の儒者たちは、大陸や半島から舶載されてきた漢籍を読んで儒学を学んだ。その舶載書の中には、明代に出版されてきた朱子学の注釈書がたくさんあった。『四書大全』(明の永楽帝の命で編纂された四書の注釈書)などはその代表である。それらの注釈書はほとんどが科挙のための学習書であった。日本は中国や朝鮮と違って科挙はなかったが、日本の儒者たちは明代の科挙学習書・注釈書によって朱子学を理解していた。特に、近世前期の儒者たちは、皆このような過程を経てそれぞれの思想を形成していった。
林羅山は舶載書の選書に携わり、そして多くの漢籍に訓点を付けた。羅山が付けた訓点は「道春点」という。朱子学者で福岡藩儒だった貝原益軒(1630-1714)も舶載書の選書を担当していた。彼は明代の注釈書の版本を大量に集め、それらをもとに自分で『大学』の注釈書をも作ったりした。また、益軒も漢籍に訓点を付けた。「貝原点」がそれである。
中江藤樹 後世「近江聖人」と呼ばれた中江藤樹(1608-48)は、『四書大全』などによって明代の儒学思想を積極的に摂取し、その思想を形成した。彼は博覧の林羅山を単なる知識紹介の学問に過ぎないと批判した。藤樹においては、儒学は生きるための学問でなければならない。彼は身体を通じて学問を実践しようとした。その主著『翁問答』などに顕著に見られるように、藤樹の孝の思想は、実践を目指す宗教的な性格を色濃く持っている。『翁問答』執筆のころから、徐々に朱子学から陽明学へと進んだ藤樹は、晩年(1644)に『陽明全書』を得て以後、
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陽明学に傾倒した。そのことから、日本陽明学の祖と称せられることもあるが、疑問視する意見もある。なお、藤樹の代表的な門人としては、熊沢蕃山(1619-91)や淵岡山(1617-86)が挙げられる。
山崎闇斎 山崎闇斎(1618-82)は、近世前期の代表的な朱子学者で、そして垂加神道の提唱者である。闇斎は、明代の朱子学注釈書を通じて朱子の思想を理解することを排斥し、朱子その人の言葉に即して学ぶべきことを強調した。要するに『四書集注』をはじめとした朱子の著述を精読し、そしてその中から朱子の〈真意〉を明らかにし、それを体認するという学問方法である。そのことによって、闇斎は日本における朱子学研究の水準を大きく引き上げたのである。他方、闇斎は中世以来の諸神道説を集大成し、そして、朱子学と神道の一致を主張して垂加神道を創唱した。闇斎の学風と門人への教育は
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峻厳と評されたが、多くの門人が育ち、「崎門三傑」と称された佐藤直方(1650-1719)、浅見絅斎(1652-1711)、三宅尚斎(1662-1741)らが輩出した。
山鹿素行 一方、はじめ朱子学を修めたが、後にそれを批判し、直接古代の経書について学ぶことを説く者が出てきた。山鹿素行(1622-85)は、最初林羅山について朱子学を学んだ。また、軍学・和学をも修め、神道や老荘などに関心を持っていた。彼は朱子の「性理学」を主観主義として批判し、現実の事物に即して「理」を明らかにすることを説いた。自らの学問を「聖学」と呼び、『山鹿語類』やその摘要『聖教要録』などの著作に集大成した。朱子学を批判した『聖教要録』の出版(1666)は幕府に咎められ、赤穂へ配流された。
伊藤仁斎 伊藤仁斎(1627-1705)は朱子学を批判し、『論語』などを経書本来の意義をとらえる「古義学」を唱えた。仁斎は『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と称賛し、その「義疏」としての『孟子』をも重視して、孔子の教説の古義を明らかにしようとした。彼は『四書集注』『四書大全』などの朱子学の解釈体系を批判的に解体し、『語孟字義』『論語古義』『孟子古義』などを著した。仁斎生前にその塾「古義堂」を訪れた者は3,000人を越えたという。嗣子東涯(1670-1736)はその学問と塾を継いで、仁斎著作の校訂出版と古義学の普及に努めた。
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荻生徂徠 明の古文辞派に影響を受けた荻生徂徠(1666-1728)は、朱子学・仁斎学を批判し、六経に依拠して「先王の道」を掲げる新しい古学を唱えた。仁斎の古学は、『論語』の「孔子の道」に基づき、「道」を人倫世界に限定していた。一方、徂徠の「先王の道」に基づく古学は、「道」を政治や制度に限定した。彼の主著に『弁道』『弁名』『論語徴』や、経世論の『太平策』『政談』などがあった。古の言語のありかたに即して、古の言葉を明らかにしようとする徂徠の古学の方法論は、国学者の本居宣長などにも影響を与えた。なお、徂徠の門人に、経世派を代表する太宰春台(1680-1747)や、詩文派を代表する服部南郭(1683-1759)などがいた。
徂徠以後、徂徠学を継承する者や、徂徠学を批判する者が現れ、近世後期の儒学界をにぎわした。折衷学者は徂徠の古学を批判し、諸学の長所を折衷しようとした。朱子学を正学とした儒者たちは徂徠学を「功利の学」として批判し、道徳教化によって秩序の再建を図った。また、大坂の懐徳堂の諸儒は、徂徠学を批判しつつ、多彩な知的営みを展開した。
(三)国学
国学とは、近世中期ころから、『万葉集』や『古事記』など日本の古典を研究し、「日本古来の精神」を明らかにしようとする学問である。大坂の僧侶契沖(1640-1701)は、『万葉代匠記』(1690)を著した。それは水戸の徳川光圀(1628-1700)の依頼を受けて、『万葉集』の注釈書として書いたものである。彼は、古語の研究を通じて実証的に古典を解釈する、文献学的な方法を採った。
京都伏見稲荷の神官荷田春満(1669-1736)は、契沖の学問の影響を受けて、和歌と神道説との融合を図った。春満の門人賀茂真淵(1697-1769)は、契沖の文献学的方法を取り入れて、『万葉集』などの研究に力を注ぎ、『万葉考』を著した。そして、純朴で力強い「ますらおぶり」という万葉調の歌風を提唱した。真淵の晩年の門人に、
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本居宣長(1730-1801)がいた。
本居宣長 宣長はじめ医学と儒学を学び、特に荻生徂徠の古文辞学に大きな影響を受けた。後に日本古典の研究に進み、契沖以来の国学研究を大成した。彼は『源氏物語』などの研究によって、物語の本質として「物のあわれ」論を説いた。そして、『古事記』の研究に力を尽くし、三十余年をかけて『古事記伝』(1798)を完成させた。宣長は、仏教や儒学などの外来思想を「漢心」として批判し、日本固有の思想を復活させようとする「古道」論を唱えた。
平田篤胤 平田篤胤(1776-1843)は、本居宣長の死後にその門人を自称し、独自の国学を主張した。彼はさらに古道論を強調し、宗教としての神道理論へと発展させた。その思想は幕末に、地方の神官や豪農たちに受け入れられ、「草莽の国学」となって地域に浸透した。
(四)洋学
鎖国と蘭学 近世の西洋学術の研究は、洋学と総称される。幕府の鎖国政策により、西洋ではオランダだけが通商を許された。そのため、オランダ語・オランダ人を通じてもたらされた西洋学問・知識は、一般に「蘭学」と言われる。
『解体新書』 前野良沢(1723-1803)は杉田玄白(1733-1817)らとともに、1771(明和8)年に江戸の小塚原(荒川区南千住)で刑死した死体の解剖に立ち会った。その時、彼らはオランダ語に翻訳された解剖書『ターヘル・アナトミア』(解剖学表)の解剖図の正確さに驚いた。そこで、その書を『解体新書』(1774)として翻訳して刊行した。玄白はその翻訳の苦労を『蘭学事始』(1815)に書き残している。良沢・玄白に教えられた大槻玄沢(1757-1827)は、蘭学の入門書『蘭学階梯』(1783)を著した。そして、蘭学塾「芝蘭堂」を開いて一般に蘭学を広めた。
洋学は当初医学から始まったが、次第に人文科学・自然科学の様々な分野に広がっていった。
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平賀源内と司馬江漢 平賀源内(1728-79)は博物学を通じて蘭学を広めた。そして、長崎遊学中に西洋画の技法を学び、油絵の洋風画を描いた。司馬江漢(1747-1818)は、当初狩野派の絵画を学び、次いで浮世絵を描いた。後に平賀源内らと交わり、西洋画への関心を深めた。蘭書によって、腐食銅版画の自製に成功している。また、油絵の西洋画も多数描いた。長崎遊学の後、天文学・地理学へも関心を深めた。江漢は、コペルニクスの地動説を紹介した『和蘭天説』(1795)や、ヨーロッパを中心に世界地理を論じた『和蘭通舶』(1805)などを残した。
第二節 近世の文字文化
(一)文字社会
兵農分離と文字社会 近世は「文字社会」であった。文字が社会に浸透し、文字の使用を前提にした社会のシステムが作られた。近世社会は兵農分離体制だったので、少数の武士(兵)が都市に集住し、村の多数の「農民」(農民や山民も含める)を支配していた。そのもとで、直接的な人身支配ではなく、武士は文字に書いた文書や法令を使って、村の農民を支配する。つまり、近世社会は文書行政となっていた。上から下への行政情報だけではなく、下から上への申告、陳情、訴訟なども、すべて文書に形にしなければならなかった。そのため、文字を知らなければ不利益を受ける。
村請制 農民は領主へ年貢を納める義務があった。年貢の納入は村単位で責任を負う村請制だったが、村内各戸への割付は村役人(自治政治だった村の有力村民が務めた)によって行われた。当然、村役人には高度な書記能力と数学能力が必須だった。しかし、農民にも識字や計算の能力がなければ、村役人に不正があった場合、それを見抜くことができない。また、農民は収穫物を商品として都市へ売るためにも、文字や計算能力は必要であった。
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そして、都市を取り巻く貨幣経済の生活となれば、さらに言うまでもない。
手習い 江戸時代の民衆たちは、手習塾(子供に手習いを教える塾。上方では「寺子屋」という)で文字を学んだ。7歳前後から10歳過ぎぐらいまでに、そこで文字を正しく読み書きすること(識字能力と書記能力)、そして文字を美しく上手に書く技(「能書」)を身につけた。また、社会生活に必要な知識、世の中の規範や道徳的な心得などの習得も求められた。「書礼」という文字使用の約束事をはじめ、政治的文書や職業的文書などは、すべて手習塾で教えられていた。「三行半」と通称される離縁状さえ、子供が手習いしたという。なお、手習塾では大抵「お家流」という書流が教えられていた。それは、鎌倉後期の青蓮院流の系統を引く和様書道の流派で、優美な草書体である。江戸時代を通じて、もっとも広く使用されていた。
共通の書記言語「漢文」 江戸時代には、口頭で話す言葉は地方差が大きかったが、文字言語・書記言語の文字文化は共通していた。ここは日本列島内にとどまることではなかった。東アジアの漢字文化圏に当てはめても同じようなことが言える。中国語や朝鮮語というように、それぞれ日本語とは違う音声言語が使われていた。しかし、漢文は共通する書記言語であった。
(二)商業出版と文化の大衆化
商業出版の始まり 日本では、古くから出版が行われていた。現存する世界最古の印刷物である百万塔陀羅尼は奈良時代の8世紀後半のものである。それ以降、中世の禅宗寺院による五山版や、16世紀後半の宣教師によるキリシタン版があった。また、近世初期には天皇や幕府の意思による出版物もあった。しかし、それらはいずれも特権階層のためのもので、商業出版ではなかった。営利のための出版は1630年代の京都の「本屋」(出版書肆)に始まった。後に大坂にも現れ、18世紀中期以後には出版書肆は江戸でも盛況を迎えた。
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商業出版に伴い、出版部数も増加した。そして、印刷方法も木活字本から整版本へと変わった。活字が再利用できる木活字本は、出版費が安いものの印刷部数が少なく、大量出版に向かない。一方、版木に直接文字などを彫り込む伝統的な方法による整版本は、千部以上の印刷にも耐えられ、見た目もきれいに仕上がるので、大量出版に打って付けであった。
文化の大衆化 商業出版が盛んだった背景に、読者人口が増加したという事実があった。また、それは読み書き能力のある人口が顕著に増えたことを意味する。そして、商業出版は文化の大衆化をもたらした。浮世草子など庶民向けの娯楽的読み物が登場し、井原西鶴はその気運で一挙に売れっ子作家となった。また、能や浄瑠璃、茶道や華道など諸芸の手本の出版も、商業出版と深い関係があった。
現在、『徒然草』『伊勢物語』『源氏物語』『万葉集』『古今和歌集』『枕草子』などの作品は、広く親しまれる「日本の古典」となっている。しかし、それらは17世紀に相次いで出版されるまでは、一部の公家知識人層で伝写されていただけだった。つまり、「日本の古典」と見なされる諸作品は、実は17世紀に出現した出版メディアが生み出した、と言っても過言ではない。
貝原益軒と益軒本 長生術を説いた『養生訓』の著者としてよく知られる貝原益軒は、この出版メディアを発見した最初の儒者である。彼は百余りのタイトル、二百〜数十巻に上った膨大な数の著作を残した。なかでも、漢文の経学書より、平易な和文で実用書(『三礼口訣』など)や学習書(『和字解』など)、そして教訓書類(『大和俗訓』『和俗童子訓』など。明治後期に「益軒十訓」と総称)を大量に書いた。「益軒本」と総称されるこれらの和文著作は、どれも一般多数の読者(漢文読者と娯楽読者の中間)向けに書かれたものである。識字能力はあるものの「学問」のレベルに届かない一般庶民は、「益軒本」を手にして自己学習した。彼らは読書によって「教養」を身に
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つけていた。我々がイメージするおなじみの近代の読書風景は、江戸時代にすでに始まったと言えよう。
第三節 近世の学習文化
(一)手習塾
一対一の人格的関係 江戸時代の子供たちは手習塾で文字の読み書きなどを学んだ。近代の学校のような一斉入学と違って、手習師匠への入門は定まった年齢も時期もなかった。師匠の許可さえあれば、いつでも入門することができた。師匠と弟子は一対一の人格的な関係を取り結ぶことになるため、師匠の子供への影響は大きかった。良き師に就くために、親は子供のために人柄や教え方などを考慮に入れて師匠を選んでいた。
個別学習と自己学習 手習塾は登校時間が一定ではなかった。朝、子供たちはそれぞれの家の生活時間に合わせて登校した。また、個別学習と自己学習が基本となっていたため、一斉教授ではなかった。師匠からそれぞれ手本を渡され、それをひたすら手習いするだけの繰り返しだった。机は普通、木の天板に脚が2つついた、装飾のない横長の経机が使われた。天板の裏側に大抵「天満天神」(学問の神、菅原道真)と記されることから、「天神机」と呼ばれた。そして、机の並べ方も今の学校の教室と違って、その時々に自由に並べられた。
手習塾には近代学校のようなカリキュラムもなかった。あくまで学ぶ側の都合や意思によって必要なだけ学ぶのが、手習塾の自己学習の基本であった。
(二)儒学の学び
儒学・経書を読む学問 江戸時代に単に「学問」と言えば、それは儒学のことであった。儒学とは、要するに四書五経に代表される「経書」を読むことに徹した学問である。儒学の学習は、以下のような段
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階によって行われた。
素読 まず、子供時代に、『孝経』や四書の「素読」から始めた。素読とは、経書を声に出して正確に読み、ひたすら繰り返すことでその全文を暗唱してしまうことである。この段階では、経書の意味については原則として教えない。なお、素読開始年齢は、数え年で7、8歳が適していると考えられていた。そして、素読は手習いの学びと同じく、個別指導と自己学習の原則で行われた。
講義 素読の次は「講義」の段階に入る。「講義」とは、経書の「義」(意味や解釈)を口頭で「講」ずるという意味である。これも一斉教授ではなく、学生一人一人に、個別に経書の一字一句の意味が教えられた。
会業 その次は「会業」である。これは素読・講義の課程を一通り終え、ほぼ独力で漢籍を読む「自習」レベルの学生たち(数人から十数人)の共同学習である。「会読」と「輪講」の2つがあり、いずれも当番を決めて輪番で報告し、それをもとに皆で議論するものである。「会読」は、経書以外の漢籍(史・子・集)をテキストとして、多くの分量を読むことに重点を置いた。これは今でいう読書会に近い。他方、「輪講」は輪番でメンバーの前で経書を「講義」することである。
(文責:田世民)
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確認してみよう
一、次の文章を読み、正しいものを下記から一つ選びなさい。
- 近世に至って、博士家や禅僧に代わって、ようやく自覚的な儒家が登場した。近世儒学の開祖と評される(a. 藤原惺窩、b. 林羅山、c. 松永尺五)である。
- 山崎闇斎は中世以来の諸神道説を集大成し、そして朱子学と神道の一致を主張して(a. 伊勢神道、b. 吉田神道、c. 垂加神道)を創唱した。
- 前野良沢らはオランダ語に翻訳された解剖書『ターヘル・アナトミア』の解剖図の正確さに驚いた。そこで、その書を(a.『解剖新書』、b.『解体新書』、c.『解釈新書』)として翻訳して刊行した。
- 江戸時代には、(a. 三行半、b. 四行半、c. 五行半)と通称される離縁状さえ、子供が手習いしたという。
- 江戸時代に単に「学問」と言えば、それは(a. 国学、b. 蘭学、c. 儒学)のことであった。
二、次の文章を読み、空欄に適切な言葉を入れなさい。
- 林羅山は舶載書の選書に携わり、そして多くの漢籍に訓点を付けた。羅山が付けた訓点は( )という。
- ( )はじめ医学と儒学を学び、特に荻生徂徠の古文辞学に大きな影響を受けた。後に日本古典の研究にも進み、契沖以来の国学研究を大成した。
- 司馬江漢は、コペルニクスの( )を紹介した『和蘭天説』や、ヨーロッパを中心に世界地理を論じた『和蘭通舶』などを残した。
- 版木に直接文字などを彫り込む伝統的な方法による( )は、千部以上の印刷にも耐えられ、見た目もきれいに仕上がるので、大量出版に打って付けであった。
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- 江戸時代の子供たちは( )で文字の読み書きなどを学んだ。
三、次の文章を読み、設問に答えなさい。
- 近世前期の儒者たちは、どのような過程を経てそれぞれの思想を形成していったのか、考えてみてください。
- 近世前期、はじめ朱子学を修めたが、後にそれを批判し、直接古代経書について学ぶことを説く者が出てきた。その代表者を3人挙げてください。
- 近世の西洋学術の研究は、洋学と総称されるが、なぜ一般に「蘭学」と呼ばれるのか、考えてみてください。
- 現在、「日本の古典」と見なされる諸作品は、どのように生まれたのか、考えてみてください。
- 江戸時代における儒者の学習は、どのような段階によって行われたのか、考えてみてください。
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参考文献
- 古田光、子安宣邦『日本思想史読本』、東洋経済新報社、1979年
- 家永三郎『日本文化史 第二版』、岩波書店〈岩波新書〉、1982年
- 辻本雅史『「学び」の復権――模倣と習熟』、角川書店、1999年
- 深谷克己『日本の歴史6、江戸時代』、岩波書店〈岩波ジュニア新書〉、2000年
- 加地伸行他『儒教の本 知られざる孔子神話と呪的祭祀の深淵』、学習研究社、2001年
- 桂島宣弘他『日本思想史辞典』、ぺりかん社、2001年
- 大石学『大江戸まるわかり事典』、時事通信社、2005年
- 辻本雅史著、張崑将・田世民訳『日本徳川時代的教育思想与媒体』(東亜文明研究叢書31)、国立台湾大学出版中心、2005年
- 倉地克直『江戸文化をよむ』、吉川弘文館、2006年
- 辻本雅史『教育の社会史』、放送大学振興会、2008年
- 辻本雅史『教育を「江戸」から考える 学び・身体・メディア』、日本放送出版協会、2009年
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